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13.10.22.東海寺大山墓地(北品川4丁目)澤庵宗彭墓

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写真: 13.10.22.東海寺大山墓地(北品川4丁目)澤庵宗彭墓

写真: 13.10.22.東海寺大山墓地(北品川4丁目)賀茂真淵墓 写真: 13.10.22.東海寺大山墓地(北品川4丁目)澤庵宗彭墓

「旧東海道中1.13 春雨寺・東海寺大山墓地」コピペ――
2013年10月23日 01:31

●沢庵宗彭――
天正元年12月1日(1573年12月24日)但馬国出石生まれ。
秋庭綱典次男。但馬守護 山名祐豊重臣。

山名家は織田信長軍 羽柴秀吉に侵略され滅亡、父は牢人となった。沢庵8歳。
出石の唱念寺で出家、春翁の法諱を得る。10歳。
出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名。14歳。
天正19(1591)年、希先が入寂ののち、出石城主 前野長康は大徳寺から春屋宗園の弟子 薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵は薫甫に師事することとなる。19歳。
文禄3(1594)年、薫甫が大徳寺住持となり上京、沢庵もこれに従う。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭(そうほう)と改名。22歳。
慶長4(1599)年、亡母の供養のため佐和山城内に瑞嶽寺を建立した石田三成より、三玄院の建立以来親交があった春屋は住職の派遣を依願された。
春屋は薫甫を住職に任命。沢庵も師である薫甫に従い、佐和山城へ同行した。沢庵27歳。

関ヶ原合戦のち佐和山城落城後、薫甫と沢庵は城を脱出し、春屋のところへ落ち延びた。
そののち、春屋に従い処刑された三成の遺体を引き取り、三玄院へ埋葬した。
慶長6(1601)年、薫甫入寂。沢庵は和泉国堺に出て、文西洞仁の門下へ入った。
慶長8(1603)年、文西入寂。次は南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事した。
慶長9(1604)年8月4日、大悟。沢庵の法号を得た。32歳。
慶長12(1607)年、大徳寺首座・大徳寺塔中徳禅寺住持・南宗寺兼務。
慶長14(1609)年、大徳寺第154世住持。沢庵37歳。
しかし、名利を求めない理念から3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。
元和6(1620)年、郷里出石に帰り、出石藩主 小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて隠棲した。沢庵48歳。


◎紫衣事件――
慶長18(1613)年、幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」・「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」、「公家衆法度」)を定めた。
慶長20(1615)年、「禁中並公家諸法度」を定め、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
しかし、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代家光)は、寛永4(1627)年、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代 板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げさせた。
幕府の強硬な態度に対し、朝廷はこれまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることを強く反対した。
沢庵は京に上り、玉室宗珀、江月宗玩と共に大徳寺の僧をまとめた後、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を実施。
寛永5(1628)年、抗弁書を幕府に提出した。そしてこの運動は、罪に問われることとなる。
寛永6(1629)年、問責のため江戸へ召喚された。江戸城内での弁論の結果、同年7月、幕府は有罪と裁定。沢庵は出羽国上山、玉室は陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ、流罪となった。沢庵57歳。

※江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を全国へ示した。朝廷の官職のひとつに過ぎない征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上にいると。

配流された上山藩では、藩主 土岐頼行が沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿に心をうたれ、沢庵に草庵を寄進するなど厚遇した。
沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、とても愛したと伝わる。

寛永9(1632)年、大御所 秀忠の死から大赦となり、紫衣事件に連座した者はみな許された。

※紫衣――紫色の法衣や袈裟をいい、古代より宗派を問わず高徳の比丘・比丘尼が朝廷から賜った。個の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源のひとつでもあった。


※西五反田3丁目一帯。東海寺から、現山手通り外回りを道なりに来れば到着する、柳生家下屋敷。東海寺へ移るまで沢庵はここの長屋の一室に借り住んだ。「検束庵」と名付け、家光から屋敷を与えると言われても断っていたという。



赦免後、江戸神田広徳寺に入った。京に帰ることは許されず、同年冬より駒込の堀直寄(越後国村上藩初代。村松藩堀家家祖)の別宅に身を寄せ、寛永11(1634)年夏、京へ戻った。
同年、家光は朝廷との関係改善のために上洛。このとき、天海、堀直寄、柳生宗矩の強い勧めにより、沢庵は家光に謁見。
この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになったという。

同年、郷里出石に戻る。
寛永12(1635)年、幕命により再び江戸へ。
寛永13(1636)年、玉室、江月らとともに家光に謁見。そこで沢庵ひとりは江戸に残り、家光に近習するよう求められた。これに応じた。
江戸では柳生家下屋敷に逗留。家光の召しに応じて登城し、禅を説いた。
寛永15(1638)年、上方へは度々戻っていたが、「原人論」を後水尾天皇に講義したとき上皇より国師号授与の内示があった。沢庵はこれを断り、代わりに大徳寺一世 徹翁義亨へ追諡を願う。
この前後、柳生宗矩の頼みを受けて大和国柳生庄に赴き、芳徳寺を開山している。
寛永16(1639)年、江戸へ戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなった。沢庵67歳。

寛永18(1641)年、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳寺・妙心寺の寺法旧復を達成、家光より正式に申し渡された。これにより両寺は従前通りの出世入院が認められ、また幕府から剥奪された大徳寺住持 正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻された。

正保2年12月11日(1646年1月27日)、沢庵入寂。74歳。
死に際し、弟子に辞世の偈を求められ、「夢」の一文字を書き、筆を投げて示寂したという。「墓碑は建ててはならぬ」との遺誡も残したが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓がある。


◎沢庵漬け――
だいこんの漬物であるいわゆる沢庵漬けは、一伝に沢庵が考えたといわれている。あるいは、関西で広く親しまれていたものを沢庵が江戸に広めたとも。後者の説では、徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、大根のたくわえ漬を供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と絶賛したと伝えられるが、風聞の域を出ない。

東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ。
「貯え漬け」ないし「じゃくあん漬け」と呼ばれていたものが訛って「たくあん」なったという説、沢庵和尚の墓の形状が漬物石の形状に似ていたことに由来するという説もある。

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