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谷中霊園(台東区)阿部家墓所

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写真: 谷中霊園(台東区)阿部家墓所

写真: 谷中霊園(台東区)阿部家墓所 写真: 10.11.11.谷中霊園(台東区)渋沢栄一墓

正邦から正教まで。


mixi記事コピペ――2010年12月04日 15:00
●阿部氏――
“安祥譜代7家”のひとつ。
戦国時代、松平清康に仕えた阿部定吉がいる。
松平清康が尾張国(那古野城 織田信秀)へ侵攻を開始したとき、突如として陣中に定吉謀反の噂が流れた。これは信秀の謀略であったともいわれるが、清康は定吉をもともと信用していなかったとされ、この噂は信憑性のあるものとして流布された。
定吉に謀反の腹はなかったが、処断される覚悟を決め、嫡男 阿部正豊を呼び「もし自分が討たれるようなことがあったら、無実を証明してほしい」と二心なき旨を記した書状を託した。
それから数日後(翌日?)、尾張滞陣中に清康の馬が本陣で暴れ出す騒ぎが起きた。正豊はこれを父が討たれたと勘違いし、本陣にいた清康に斬りかかり即死させた。正豊はただちに植村氏明に討伐された。これが森山崩れ。
定吉は責任を取って自害しようとしたが、清康嫡男 広忠は定吉を許し、そのまま登用した。
後顧の憂いか、定吉は後嗣を設けず、家を自分かぎりで断絶させた(井上氏は定吉の流れと考えられているが)。
松平氏に仕えた阿部氏は他にもおり、系譜は解明されていないが、三河国に土着した阿部氏の祖は孝元天皇の第一皇子 大彦命と設定されている。定吉・正豊とのつながりは明らかになっていないが、阿部正勝が近世阿部家系譜の頂点にいる。

●阿部伊予守――
阿部家・阿部宗家、阿部福山家・福山藩阿部家

1、正次、従五位下・備中守、従四位下
正勝嫡男。武蔵国鳩ヶ谷5000石。譜代家臣。
近世阿部家宗家初代とされる。
慶長5(1600)年、父の死去にて家督相続。
慶長8(1603)年、関ヶ原合戦後、相模国内に5000石を与えられ、都合1万石の大名になる。鳩ヶ谷藩立藩。
慶長19(1614)年、大坂の陣に大番組衆を率いて従軍。大坂城へ真っ先に突入、一番首を挙げて戦功第一と証せられた。
元和3(1617)年、上総国大多喜藩3万石。
元和5(1619)年、相模国小田原藩5万石。
元和9(1623)年、武蔵国岩槻藩5万5000石。
寛永3(1626)年、8万6000石。大阪城代となり、死去する正保4年11月14日(1647年12月10日)までの22年という長期間を勤め上げた。
寛永15(1638)年、家督と4万6000石を次男 重次へ。1万石を孫 正令に分与し、自身は3万石を領する。
※阿部正令(まさよし)。正次嫡男 政澄の嫡男。のち正能(まさよし)。寛永5(1628)年、政澄が父正次よりも先に病没。正勝次男 忠吉の次男 正秋(のち忠秋)の養子となった。
・武蔵国鳩ヶ谷藩 →上総国大多喜藩 →相模国小田原藩 →武蔵国岩槻藩

2、重次、従五位下・山城守、対馬守、従四位下
寛永15(1638)年、5万9000石。岩槻藩主となる。老中。この時同じく老中であった阿部忠秋は従弟。
慶安元(1648)年、9万9000石。父の遺領含む。
慶安4 (1651)年 4月20日、3代家光に殉死。

3、定高、従五位下・備中守
父の死去後、上総国大多喜の新田1万6000石は次男 正春に与えられる。
4、正春、従五位下・因幡守、伊予守
重次次男。宗家4代。のち分家、佐貫藩家初代。
万治2(1659)年、兄 定高が死去。嫡子(次男) 正邦が幼少のため宗家継承。自らの知行分と合わせて11万5000石。
あくまで中継ぎという約束だったが、正春方に不満を持つ者がおり、寛文3(1663)年12月、“汀騒動”と呼ばれる家臣殺害事件が起きている。
寛文11(1671)年、現在も岩槻の地に残る時の鐘 鋳造。
同年12月、宗家の遺領9万9000石を正邦へ譲り、大多喜へ帰る。
元禄15(1702)年9月、三河国刈谷藩へ移封。

5、正邦、従五位下・対馬守、従四位下、備中守
丹後国宮津藩 →下野国宇都宮藩 →備後国福山藩
6、正福(まさよし)、従五位下・伊勢守、従四位下
正邦4男。
7、正右(まさすけ)、従五位下・伊予守、従四位下・侍従
正福次男。
8、正倫(まさとも)、従五位下・備中守、従四位下・伊勢守
正右3男。
9、正精(まさきよ)、従五位下・備中守、対馬守、主計頭、従四位下・侍従
正倫3男。
10、正寧(まさやす)、従五位下・対馬守、伊予守
正精3男。
天保7(1836)年、政務に消極的で、相次ぐ自然災害下にありながらなんら対策を講ぜぬまま、隠居。弟 正弘に家督を譲る。
明治3(1870)年7月1日に62歳で死去。

11、正弘、従五位下・伊勢守、従四位下、侍従、贈従三位
正精5男。
天保8(1837)年、生涯一度きりの福山お国入り。
天保9(1838)年、奏者番に任じられる。
天保11(1840)年5月、寺社奉行見習、11月 寺社奉行に任じられる。
大奥と僧侶が11代家斉時代に乱交を極めていた事件が露見する。正弘は家斉の非を表面化させることを恐れ、僧侶の日啓や日尚らを処断(感応寺破却)、大奥の処分を一部分だけに限定して行った。この裁断により、12代家慶より目をかけられるようになったといわれる。
弘化2(1845)年、海岸防禦御用掛(海防掛)を設置、外交・国防問題に当たらせる。
薩摩 島津斉彬、水戸斉昭など諸大名から幅広く意見を求めて国政にあたった。さらに、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人材登用を行っている。安政2(1855)年には、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用、海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設している。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。
※“雨窓閑話稿”(松平春嶽著)――正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と笑いながら答えた――とある。
嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリー再来。同年3月3日(3月31日)、日米和親条約締結。約200年間続いた鎖国政策が終わりを告げた。
攘夷論者だった。極論や暴論を繰り返す攘夷派を抑えるために、本心を隠し意図的に協調路線を選択した点がうかがえる。教育研究機関を設置するなど実利的に洋学を導入しながら、自らは蘭方医の治療を最期まで拒んだという。先祖古来の鎖国体制を破ったことが心に傷をつくっていたという。
継嗣問題は一橋派。
天保14(1843)年閏9月11日、25歳で老中になった。
安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。
(著名人なので、あまり特集されないネタであろう部分を記した┌(_ _)┐)

12、正教、従五位下・伊予守
正寧長男。
文久元(1861)年、23歳で早逝。わずか4年間のみで、藩政になんら関わっていない。
13、正方、従四位下・主計頭
正寧3男。
文久元(1861)年、14歳で相続。第1次・第2次長州征伐に参陣。2次は病に伏せている。
慶応3(1867)年11月22日、長州藩軍が戊辰戦争へとつながる進軍を開始したとき、正方は病を悪化させ、福山城内にて20歳で死去。嗣子おらず、男系が終わる。断絶となるところだが、維新の混乱に死は秘匿された。
※阿部家歴代藩主で唯一、福山に眠る。
わずか7年間だけだったが、藩政において多くの施策を実施している。
14、正桓(まさたけ)、従五位下・主計頭、伯爵、従二位
浅野宗家13代長勲(ながこと)実弟。11代正弘娘 寿を室に、養子となる。
8代浅野重晟の4男 長懋(ながとし)の8男懋昭(としてる)の3男f(-_-;長勲は長男。

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